新元号のもと、はじめての御好み茶碗は、 「令和」の時代を迎えた慶びと、東京オリンピック・パラリンピック を開催する記念の年であることから「重ねる」をテーマとし、 切形の重茶碗を《膳所・陽炎園》にて作成いたしました。
膳所焼は遠州公の指導した窯のひとつであり、素朴でありながら 繊細な意匠は遠州公が掲げた「綺麗さび」の精神が息づく茶碗と なっております。
膳所焼は近江国滋賀郡膳所、現在の滋賀県大津市で焼かれており、遠州七窯の一つです 。琵琶湖の南に位置する膳所地方は古くから開け、天智天皇の頃湖畔に田を拓き、湖水の魚を取り、食を朝廷に御供えしたところから「膳所」と呼ばれるようになったと云われています。関ケ原の戦い以後、城が大津より膳所に移され、城下町として栄え、陶器も焼かれるようになりました。
元和七年(1621)~寛永十一年(1634)に膳所城主を務めた菅沼織部定芳は遠州、光悦、松花堂らとお茶を通じて親しい間柄でした。元和八年に遠州は近江奉行を仰せつかり、この頃あたりから遠州の好みが焼かれ始めたのではないかと考えられています。
膳所焼の特徴は、ねっとりした細かい白土を用い、紬薬は金気紬(鉄錆のような色合の釉)を素地に掛け、その上に濃い黒紬や黄色の飴釉などを景色となる様に掛けてます。
この度、宗実家元が御好みになりました膳所重茶碗は、上の茶碗は白釉と飴釉が掛分けてあり、釉薬の錯綜が見事な景色となっています。下の茶碗は、茶釉が茶碗全体にかかり、胴の細かい轆轤目に釉溜りが出来、轆轤目が非常に綺麗に映し出されています。形は前押で、小堀家に伝わる「遠州切形」を基に忠実に再現されています。高台の印は、宗実家元の字形で特別な印で、箱は宗実家元の書付です。
後世に残すべき素晴らしい作品です。
膳所焼で遠州好みの代表的な茶入が根津美術館にあります「大江」です。丹波の「生野」や高取の「染川」などの茶入と同様に肩に繊細な耳が付けられ、全体の気品を高めています。胴には細かい轆轤目がめぐり、そこに黒紬が一筋なだれ、遠州好みを強く感じさせます。瓢箪茶入では「白雲」が知られています。また、水指も遠州好みと思われる耳付や、洗練された末広、口四方形などがあり、いずれも膳所焼独特の黄飴釉や黒釉が流し掛けされ、見事な景となっています。その他茶碗や花入、硯なども焼かれています。
膳所焼として遠州に極めてゆかりの深いものに、MOA美術館と遠州茶道宗家に伝わる膳所光悦の茶碗があります。寛永十三年に遠州が将軍家光の命を受けて造営していた品川屋敷の御殿と茶席が完成し、同年五月二十一日将軍家光の御成りがありました。そこで遠州はお茶会を催し献茶を行い、将軍を持て成します。遠州はその時の道具の取合せに苦心し、掛物は石渓心月の墨蹟、茶入は在中庵を用います。そして特に将軍が実際に口をつけられる茶碗には新しいものをと気を配り、本阿弥光悦に作陶を依頼します。光悦は気持を察して普段の楽の土、釉ではなく、遠州指導のなされている膳所の土、釉を取り寄せて茶碗を造ります。それが「膳所光悦」です。総体枇杷の肌に褐色釉が三か所にバランス良く掛けられ、光悦独特の豪快な箆さばきで一気に削られています。遠州はこれらの作事、献茶を賞され、将軍から清拙正澄の二大字墨蹟「平心」と盃をは遺領し、名実共に茶道の第一人者となりました。
遠州公とゆかりの深い膳所焼。宗実家元が令和二年の茶碗として御好みになりました。ギャラリーきほう、又はギャラリーきほうオンラインショップで販売しております。是非この機会にご利用くださいますようお願い申し上げます。
※茶碗により釉薬や造形、寸法などの違いがありますのでご了承ください。